Professor Hideki Yukawa's Anguish and a Lifelong Decision During a Three-Day Visit to Kochi to Unveil His First Bronze Statue: From a Cave Bat to the World

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📝 Original Info

  • Title: Professor Hideki Yukawa’s Anguish and a Lifelong Decision During a Three-Day Visit to Kochi to Unveil His First Bronze Statue: From a Cave Bat to the World
  • ArXiv ID: 2512.21858
  • Date: 2025-12-26
  • Authors: Shigeo Ohkubo

📝 Abstract

In 1954, following a five-year research period in the U.S., Professor Hideki Yukawa returned to Japan and visited Kochi on March 21 to attend the unveiling ceremony for the first statue of him ever built in Japan, a project initiated by the PTA of Yasu Elementary School in Yasu Town, Kochi Prefecture. By a coincidence of history, just three weeks prior on March 1, the U.S. had conducted a hydrogen bomb test at Bikini Atoll in the Pacific Ocean. Many Japanese fishing boats were operating there at the time and had not been informed in advance. As a result, numerous boats, including the Daigo Fukuryu Maru, were exposed to radiation. Upon his arrival at Kochi Station on the evening of March 21, Yukawa was relentlessly questioned by reporters about the Bikini hydrogen bomb. This was a source of deep anguish for Yukawa, a Japanese physicist who had won the Nobel Prize for his work on "atomic physics." He firmly refused to answer, stating that the topic was "outside the scope of my research." The next evening, at a public lecture in Kochi City on March 22, he again refused to speak about the Bikini hydrogen bomb or nuclear power, stating that he was an amateur in nuclear research and that there were many other experts. However, just four days later, on March 28, after returning to Kyoto, Yukawa drafted his famous essay, "The Turning Point for Humanity and Atomic Power," which was published in a newspaper on March 30. From that point on, he was drawn into the tumultuous issue of the Bikini hydrogen bomb and nuclear power. When did a tormented Yukawa make his decision? This article meticulously reveals, based on historical documents, what led the anguished Yukawa to make such a rapid decision within a single day and what caused the immense change in his mindset overnight.

💡 Deep Analysis

Figure 1

📄 Full Content

素粒子論研究 ・ 電子版Soryushiron Kenkyu Vol. 45 (2025) No. 4

湯川秀樹先生の胸像除幕高知訪問3 日間の苦悩と生涯の決断: 洞窟の蝙蝠から世界へ

Professor Hideki Yukawa’s Anguish and a Lifelong Decision During a Three-Day Visit to Kochi to Unveil His First Bronze Statue: From a Cave Bat to the World 大阪大学核物理研究センター
大久保茂男1

Research Center for Nuclear Physics, Osaka University, Ibaraki 567-0047, Japan
Shigeo Ohkubo

要約 湯川秀樹先生は、高知県の夜須町夜須小学校にPTA が自発的に日本ではじめて建立した湯川秀 樹銅像の除幕式に出席するため、5 年間の米国での研究生活から1953 年に帰国後翌年の1954 年3 月21 日、高知を訪問した。歴史の偶然か、出発の3 週間前、3 月1 日、米国による水爆実験が太 平洋ビキニ環礁で行われた。そこでは日本の漁船がたくさん操業していて、事前に知らされるこ とはなく、第五福竜丸をはじめ多くの漁船が被爆した。高知駅に3 月21 日夕刻到着した湯川は、 ビキニ水爆について記者団の質問攻めにあった。湯川は深い苦悩にあった。日本人として「原子 の物理」でノーベル賞を受賞した湯川である。湯川は、それは「研究外だ」と質問に答えること を断固拒否した。翌3 月22 日夕の高知市での一般市民向け講演会では、自分は原子力の研究では 素人で専門家はほかにたくさんいる、としてビキニ水爆問題・原子力について発言をすることを 前日同様に拒んだ。湯川は、だが、京都に帰り4 日後3 月28 日には有名な「原子力と人類の転機」 を起草し、3 月30 日新聞発表した。以後、ビキニ水爆問題・原子力問題の激流に引き込まれてい く。苦悩の湯川はいつ決断したのか。本稿では何が懊悩の湯川をして短期間、1 日のうちに決断 させるにいたったか、なぜ一夜で大きな心境の変化が起こったのか、資料に基づき詳細に明らか にされる。

目次 第1章 はじめに 第2章 高知訪問前の湯川秀樹:中間子論研究と米国からの帰国

1Research fellow of RCNP, Emeritus Prof. of The Univ. of Kochi, 高知県立大学名誉教授 第3 章 湯川秀樹の高知訪問:受諾から高知訪問まで直前の状況 第4 章 高知訪問決定後の原子力・原爆をめぐる社会状況の激変 第5 章 高知訪問中の湯川発言と時系列変化(3 月21 日—23 日)
5.1 3 月21 日夕方 高知駅到着時の記者会見での発言 5.2 3 月22 日午前 夜須小学校「湯川胸像除幕式」での発言 5.3 3 月22 日午後 城山高校講演での発言 5.4 3 月22 日午後 龍河洞の鍾乳洞を見物 5.5 3 月22 日夕方 高知市中央公民館一般市民向け講演での発言 5.6 3 月22 日夜 三高同窓会 5.7 3 月23 日午前 京都一中・三高時代の親友大岡義秋・静江夫人と桂浜清遊 5.8 3 月23 日午前 子供科学展入賞者の激励 5.9 3 月23 日午前 学童むけ講話 5.10 3 月23 日午後 高知ロータリークラブ会員に講話 5.11 3 月23 日午後 専門家向け学術講演 5.12 3 月23 日午後 湯川澄子夫人の座談会での講演 5.13 3 月23 日午後 講演会終了後 念願の土佐犬を見る 5.14 3 月23 日午後 高知駅発国鉄列車で京都へ帰る 5.14.1 高知駅で詩集を贈られる 5.14.2 長い深夜の帰洛の旅路 第6 章 帰洛3 月24 日から「原子力と人類の転機」執筆の3 月28 日まで 6.1 湯川の思索と湯川の本来的信念 6.2 ビキニ水爆事件をめぐる社会情勢の変化 第7 章 湯川は葛藤を乗り越え社会の風圧をどう受け入れたのか 7.1 5 段階の受容変化 7.2 湯川が高知で決断できた4 つの理由 第8 章「原子力と人類の転機」執筆から核廃絶運動へ 第9 章 素領域理論と科学者の平和運動と世界連邦構想 第10 章 終章

第1 章 はじめに 拙稿[1]で湯川秀樹先生(1907-1981)のノーベル賞受賞を記念する日本で初めての湯川胸像が高 知県の小学校に住民の自主的運動で建設され、湯川が夫人とともに除幕式に出席するため1954 年 3 月に高知を訪問していたことを報告した。アメリカでの5 年間にわたる研究生活を終え前年夏 に帰国して間もなく、多忙な中での出席であった。四国で唯一訪れていない高知をぜひ訪問した い、また恩師で元三高校長の森総之助(1876-1953)の出身地土佐への訪問願望もあって実現した。 3

夫人の強い希望もあった。湯川には楽しい「四国の春」の旅となるはずであった。 私はこの稿で、世に知られていない湯川銅像(浜口青果(1895-1979)作)の存在と湯川夫妻の訪問 のみを記し、それ以外の事柄には意図的に触れなかった。執筆のため資料を調査する中で、この 旅が、湯川にとって人生の決断を迫られる苦悩の旅であったことを知った。湯川に憧れ、京都大 学物理学科に進み、湯川の教えを受け理論物理学・原子核理論研究の道に進んだ私にとって、40 歳代の湯川が高知訪問で大変苦悩していることを知ったことは大変な衝撃であった。世の中では、 湯川は日本人として初めてノーベル賞を受賞し、敗戦で塗炭の苦しみの中にあった国民に勇気と 希望と自信を与え、国民に敬愛され、多くの人々が思っていたように順風満帆の人生をおくった ものと思っていた。1954 年ごろから関わる核廃絶の運動も科学の平和利用などの高尚な理念を実 現するための科学者としての自覚的な活動だとばかり思っていた。 ところが、事実はそうではなく、湯川は私の故郷である高知訪問中に大変な苦悩のなか、清水 の舞台から飛び降りるほどの一大決心をして、核廃絶・平和のための運動の道に進んだのであっ た。世の中には、湯川にこのような深い苦悩があったことを示す資料は何ひとつなく、誰も知ら なかった。私はこの湯川の苦悩については、自分の中にのみ留めておこうと思い、拙稿[1]では、 湯川の楽しい高知訪問のみを記し、その稿の最後を次のように締めくくったのも、そうした理由 からであった。 「湯川秀樹先生の胸像建立と除幕式は町立夜須小学校6 年生の卒業式にあわせ計画 されたという。湯川秀樹はその日、第三高等学校時代に物理の手ほどきを受けた恩師・森総之助 の生地、高知のまちを訪ねた。1954 年3 月22 日、高知県夜須町の春は子どもたち・町民たち・ 除幕式出席の湯川秀樹夫妻にとって日ざしのやわらかい春分の日の、倖あふれしあたたかい『高 知の春』、『四国の春』そして『日本の春』であった。湯川の随筆『四国の春』は残されず、湯川 胸像はその後語られることがなかった」[1] 私は拙稿[1]を発表以降、本来の理論物理学の研究に戻り、折しも2020 年から突然始まったコ ロナ禍で、他の人々と同じく、政府や自治体による「不要不急の外出自粛」要請とその社会的雰 囲気の中で、社会から隔絶を強いられ家にこもる生活となった。2019 年5 月に『素粒子論研究電 子版』に公表された拙稿[1]は、「オープンアクセス」で公開されていて素粒子・原子核研究者を はじめ、関心のあるひとはだれでも自由に読むことができる。科学史などの専門学術誌ではなく、 『素粒子論研究電子版』を選んだのも、素粒子・原子核を中心に物理学研究者や関心のある方に 自由に読んでもらいたいと思ったからであった。 論考[1]の公表から2 か月後、新聞記者(朝日新聞・湯川うらら)から、湯川胸像除幕式の写真 が新たに見つかったと連絡があり、新聞社に赴くと、湯川が胸像除幕式に臨み、自身の胸像を見 上げている鮮明な、これまで知られていなかった写真3 枚を見せてくれた。若い新聞記者は私の 論考[1]を読んですぐ、2019 年初夏に現地夜須町を訪れ、持ち前の行動力で、当時の夜須小学校6 年生で写真の所持者を見つけたのである。私が知らなかった湯川胸像が除幕される瞬間の写真が 卒業生宅に保存されていたのである。2019 年夏のことである。うら若い記者に、「いい原稿を書 いてください」と伝え、1 時間ほど取材に応じ、新聞社を後にし、夏の日差しが強い中を家路に ついた。その後、このことはすっかり忘れて、理論物理の研究に戻って没頭していた。 コロナ・パンデミック下で家にこもる状態が続いていた2021 年1 月、湯川胸像除幕式に出てい て湯川の話を聞いた、当時夜須小学校6 年生であったという清藤禮次郎から突然の電話がかかっ てきた。湯川胸像について資料を持って説明したいとのことであった。私は湯川胸像除幕式を歴 史的事実としてすでに過去のことだと考えていたので、当時の関係者が現実空間に突然現れたこ とに驚愕した。2021 年2 月のある寒い早朝、コロナ禍の中、拙宅まで来られ、たくさんの資料を 見せてくれた。その後、再び寒い早朝に、除幕式で児童代表として除幕を務めた浜田英子(旧姓 春樹)を伴って訪ねて来た。当時のことを思い出し、持参したアルバムを出して、湯川胸像除幕 式のことを話してくれた。 私は一年ほど考えて、新たに見つかった湯川夫妻、そして湯川胸像の写真を含めて、第2 稿を 書くことにした[2]。卒業生、夜須小学校関係者、新聞記者の熱意におされ書かずにはいられない 思いであった。2022 年3 月公表のこの稿[2]で、私は初めて湯川の「初めての高知への旅」が、 喜ばしい記念の「胸像除幕式」にとどまらず、湯川の生き方をも変える苦悩と生涯の転機の旅で あることに触れた。高知訪問は、湯川の社会における立ち位置が大きく変わる後半生の出発とな る旅であった。この「湯川秀樹先生の生涯の転機」に関する論考[2]は新聞でも報道され[3][4]、 折しもロシアがウクライナ侵攻で核兵器による威嚇を行っている状況と重なり、社会の関心を呼 んだ。湯川の研究一筋の人生からの大きな苦悩の決断を、世の人々が初めて知ることとなった。 「湯川秀樹」を研究している専門家によっても、驚きをもって注目されることとなった[5][6]。 この第2 稿[2]でも私は、なぜ湯川が大きな決断を短期間のうちに行うことになったのか触れな かった。湯川には大きな葛藤があり、第三者が外部から安易に論じたり、決めつけたりできるも のではないので、これ以上言及するのは、控えたいという思いがあったため、再び理論物理の「原 子核虹」と「原子核のクラスター構造」の研究に没入していた。 人の人生には、一日にして大きな決断を迫られることが、生涯のうちに何度かある。「花木春過 ぎ夏すでに中ばなり」(細川頼之(1329-1392)「海南行」)というが、筆者にはもう「秋半ばなり」 である。28 万人以上もの人々に閲覧され、社会的な反響も大きいこともあって、湯川先生が苦悩 のなか、どうして短期間のうちに研究者としての生涯を変えるような大きな決断をしたのか触れ ておき、後世のために書き残しておきたいと思うようになった。「湯川秀樹はノーベル賞を受賞し たあと、早々に研究の現場から退き、活動の場を核兵器廃絶運動など学術の外に求めた」[7]とい った誤解があることなどを鑑みると、湯川が戦後の時代背景のなかで苦悩の末に決断す

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Reference

This content is AI-processed based on open access ArXiv data.

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